neyearの日記

〇〇系男子の自戒

人間失格

笑わせることに希望を抱いていた

みんなに笑っていて欲しい、

ただそれだけだった

つまらないやつは嫌だと鏡に向かって

今日は何を話そうか

今日は誰を笑わせようか

 


そう、ありきたりな切り出しも

適当な相槌も

こんなことで雰囲気が良くなったんだって

和になって笑い合って楽しくなった気でいて

ああ、僕はもう惚れ込んでたんだって

 


綺麗な世界が広がって

そこはまるで小説の中のようだ

夕焼け帰路に並んで帰って

家に帰ったら鳥籠の中

 


そもそも僕の世界は狭くって

コンクリートパソコン本の中

顔の見えないフレンド友達の気でいて

ああ、僕はもう夢から覚めることはなくて

 


世界は今日も優しくて

仮面の舞踏会今日も社交辞令

12時の鐘が鳴り響いた

これから二次会だな

仮面を外す怪物

 


汚い世界が広がって

そこはまるで路地裏のようだ

ゴミ捨て場の烏合の衆は

秩序を忘れて夜に溶けてく

 


顔を洗わないと仮面を外して

鏡に映る私は誰だ

人間なのかな、それ以下なのかな

アイデンティティ

好きなモノは?

趣味は?

 

この手の質問は苦手だ。

 

犬が好きだった。

犬は家から追い出された。

妹が好きだった。

妹とはいつの日からか疎遠になっていた。

アニメが好きだった。

漫画が好きだった。

テレビゲームが好きだった。

麻雀が好きだった。

娯楽で得られるモノの小ささに気づいた。

娯楽にハマる自分が嫌いになった。

クラスの可愛い子が好きだった。

気になる子がいた。

噂が流れて、今となっては話すのさえ気まずい。

親友と呼べる友達がいた。

この人とは卒業しても仲が続くんだろうな、っていうくらい仲が良かった。

その人に打ち明けた相談が、よくわからない噂となって周りに広がっていった時ほど辛かったモノはない。

料理が好きだった。

掃除も好きだった。

洗濯も嫌いじゃなかった。

誰かの為にやる行動ほど、胸を張れたモノはなかった。

そんな私はきっと親の事が好きだったのだろう。

父親は消えて、母親は再婚した。

新しく妹が生まれた。

私の親はもういない。

音楽を聴くのは好きだ。

ただ、こだわりをもって曲を聴けた試しはなかった。

国境を越えたジャンルから適当に曲をプレイリストに入れていくモノですから、人に理解された試しはほとんどなかった。

いや、好きなアーティストがいる人にこんな話を持ち出すのは野暮だろうと、決めつけてしまっていた。

本を読むのは好きだ。

誰にも否定されない。

本を読む自分も、なかなか悪くないモノだ。

何より、誰にも迷惑をかけないところがいい。

趣味と呼べる唯一のものかもしれない。

趣味と呼べたモノに旅行がある。

もちろん、旅行は好きだった。

駅、美術館、博物館、道、公園、飲食店、温泉、商店街、山、海、水族館、いろんなところに行った。

今はよくわからない感染症対策のせいで、県内の公共施設は閉業している。

海外へ行くことはもちろん、県外に行くことも大変な時代になっている。

嫌な話だ。

 

こんなモノであるから、好きなことや趣味の話は苦手である。

辛うじて読書を趣味に上げれるが、別段好きな作家がいるわけでもなし。

そもそも普段何読んでるかなんて、言う気すら起きない。

なぜなら、意味がないからだ。

自分のために読んでいる。

それは人に勧めるためではないし、人を説くためでもない。

紹介さえする事はあるだろうが、読書をテーマに会話が盛り上がる事は無いだろう。

 

最近、自分のアイデンティティを問われる機会が多い。

私といえばなんだ、と言う話である。

傍からみると、私は謎な、ミステリアスな人らしい。

そう思ってもらうのは構わない。

しかし、それで噂されたり、変な決めつけがあるのであれば、今すぐにでも「それは違う」と声を大にして言いたい限りだ。

そも、普段の姿が自然体であるので、「実は…」や、「ホントは…らしいよ」などの噂は無駄だと考える。

私は人を傷つけないように本音をオブラートに包んだり、冗談を言ったりすることはあるけれども、人を傷つけるような、見栄を張るような嘘をついた覚えはないのだ。

わりかし誠実に生きているので、是非とも貶めるような噂や詮索はやめていただきたい。

 

自分の趣味について話すようにしたら?とも言われたが、余計なお世話である。

お前は俺のなんなんだ。

知りたいなら聞いてこい。

しっかり答えてやる。

そもそも、自分のことについて話すより、人の話を聴くだけで満足できてしまうので、話題が尽きない限り自分から話題を切り出す事はないだろう。

案外、人の話をしっかり聞くだけで、時間はすぐに流れていくモノである。

 

私は、人の話を聞くのが好きなのかもしれない。

そして、自分の話をだらだら話すのが嫌いなのかもしれない。

聞き上手な人なのかはわからないが、アイデンティティなんて、こんなモノで良いんじゃないだろうか。

 

主張が控えめな人間。

謙虚な人間。

周りの意見を聞くだけ聞くような人間。

それが私だ。

 

外見がなんの脈絡もなく変化するモノなので、最近アイデンティティあるのかと聞かれた気がするが、その答えはここで答えておこう。

外見が変化する前は、ほぼ、必ず、誰かに「似合ってないよ」と言われているのである。

似合ってないのなら、似合うものを模索してみたくなるモノだ。

変化する理由としては十分すぎないか?

 

まぁ、なんだ。

要はなんや、って話でありますけれども。

 

俺が髪切った理由はモテたいから、な訳ねーから。

髪長かったら時に似合ってないと言われただけだから。

 

…これを面と向かって言えない自分もだいぶ大変な性格を持っていると思うけれどね。

ほんと、我ながら嫌なやつである。

コンクリートみたいな私と自然な君

隈研吾という建築家が出した本に、自然な建築、という本がある。

 

この本を読むと、鉄筋コンクリートの本質に迫れた気がするのだ。

 

鉄筋コンクリートの本質、これ即ち、私のような現代人の本質に似通ったものがあると思うので書き留めようと思う。

 

鉄筋コンクリートは、表面を自由に取り繕う事ができる。

木材、石材、レンガ、珪藻土、、アプローチの手段は様々だ。

 

鉄筋コンクリートは、その中身を知ることはできない。

鉄筋の劣化は、壊れてやっと気づく事ができる。

 

鉄筋コンクリートは、造形の自由度が高い。

なぜなら、コンクリートそのものに形は無いからだ。型枠を用意すれば、どんな造形も可能にしてしまう。線を引き、中身に困れば、コンクリートを流すだけで整合性はとれる。

 

鉄筋コンクリートは、普遍的だ。

材料が単純であるので、型枠さえ用意できれば、どこでも作れてしまう。

 

 

それに対して、自然な材料がある。

代表的なものは木材、それ以外にも様々なモノがあるだろう。

 

それらは勝手が悪く、けれども鉄筋コンクリートには無いモノがたくさんある。

 

表面を自由に取り繕う事ができない。

材料の劣化は表面に露わになる。

造形の自由度は鉄筋コンクリートに比べて高くない。

普遍的ではない。砂漠地帯で木材を用意するのは難しい。木造が発展してきた日本は稀有な存在だと思う。

 

 

ここまで挙げて、私が日本に、とある地域で育ったことに誇りに思う。

と同時に、自分のコンクリートのような人間性に呆れてしまう。

 

 

 

具体的に言おうか

私の醜さを

 

周りには争いを起こさぬように、平和になるよう感情を押し殺して取り繕って、

ヤバくなったら欠点が露わになって、周りに迷惑かけた事が何度あった事だろうか。

生きる方針というものもないので、今までの行動を振り返ると矛盾を見つけるのは何も難しいことではなく、

きっと、このような自分のような人間はどこにもいるんだろうな、俺の代わりなんてどこにでもいるんだろうな、

 

そう、生きてきたのだ。

 

悔やんでも悔やみきれない。

 

最近、地元が好きになった。

人と触れ、自然に触れ、歴史に目を向け、文化に目を向けた。

重層的に積み重なってできた地元に誇りを持ち、形をしっかり持った自然な地元に憧れや敬いを抱き、一生をこの地で過ごすのも悪くないなと思いはしたものの、私は君に添い遂げる資格はあるのだろうか。不安になる。

 

それでも、この気持ちに嘘偽りなどないので、正直になって、この想いを告げようと思う。

 

自然な人間に、私はなりたい。

 

今を変えたい系男子の戯言

海と烏を目前にコンポタで決める朝

朝、3時に家を出た

 

朝の4時に、海と烏を目の前に、コンポタを口に注ぐ。

 

まだ、体は冷えている。

 

 

 

ナスとそうめんが美味しい季節に入った。

 

私は例年それを「夏」と呼ぶ。

 

夏の朝は涼しい。

 

厚着をするほどの寒さではなく、涼しい筈だと、思い込んでいた。

 

思い違いだっただけの話だ。

 

今朝はとても寒かった。

 

外気温8度らしいが、舐めすぎていた。

 

海に近いと風も吹く。

 

風はより体の熱を奪う。

 

温かいものを口にしなくては。

 

コーンポタージュを買うために自販機の前に立つ。

 

より一層、海に近くなる。

 

海側にオブジェがあった。

 

私の心はオブジェでは動かされない。

 

しかし、オブジェの上で体を休めている者がいた。

 

黒い衣服を纏った奴は、寒い風に当たりながらも、平然としていた。

 

その生き物に、私は何かを見出したのかもしれない。

 

心が動かされた、と言おうか。

 

コーンポタージュはできあがっている。

 

自販機から紙カップを取り出した。

 

足は海側に歩いていた。

 

オブジェが見える位置に立って、コンポタを口に注ぐ。

 

一瞬、温かいと感じるも、

 

やっぱりな、まだ、体は冷えている。

 

 

たまにはこんな記事もいいでしょう系男子卍

脈アリって実在すると思いますか?

質問形式のタイトルから始まる面倒くさいブログ記事を書く者とは私の事です。

どうも、恋愛拗らせ系男子です。

 

始まりました、ゴールデンウイーク。

たくさんの出された課題がある中、私の頭の中を占めるのは、タイトルにも書いてある通りであるわけです。

 

脈アリは実在するのか?

 

いやね、めっちゃ仲良い人がいて、

よく話して、

学外でも会って、

手を繋いだりして、

連絡もよくとって…

なんてものは脈アリ確定だと思いますよ?(??)

 

ただ、「コレって脈アリなのかな?」って思う時って、大抵そうじゃないんですよ(かなり強めの偏見)。

例えば…

気になっている子がいる、

たまに話しかけてくれる、

プライベートの事聞かれたことがある、

いつのまにか自分の隣に立ってる事がある、

付き合いの長い気になってる子と恋バナみたいな話してる時、「ずっと一緒にいたら好きになってた事とかあるよね」なーんて事を言ってた事があったり…

…例えばの話ですよ?(???)

 

そう、自分に気になる人がいて、その人と接触があった時、「脈アリだったら良いのになー」、と思い始めたその時に、未確定的事象を確定させたら人は肩の荷が降りる訳でありますから、「これって脈アリなのかな?」なんて、答えの出ない問いを、人は考えてしまうのであります。

 

少なくとも私はそうなのであります。

 

けど、答えなんて本人に聞かないとわからない訳です。

けど、脈アリですか?なんて、声をかけることはできない訳です。(答えを聞いたところで、答えがわかるわけでは無いからですね)

 

そもそも、あなたは脈アリな人いますか?って聞かれた時のことを考えると、答えに困る訳であります。

そうやって人と接した事が無いのが理由であるからです(恋愛未経験者の戯言)。

 

結局、脈アリってなんやねん?と思う訳です。

 

実は、その人と本当に付き合いたいのか?と問われると、不安なところがあったりするわけです。

 

おそらく、お互いに、気になっているだけ、に留まっているだけなんですね。

 

きっと、休みの日に一緒に時間を過ごして、良くも悪くも、この人はこんな人なんだ〜って感じない事には始まらない訳です。

じゃないと、好きか嫌いかもわからない訳ですから。

 

…きっとそれは相手からしてもそうなんだろうな〜って。

このゴールデンウイーク、相手を誘ったら、どうなるだろう?

「ねえ!今度の昼さ!どこかご飯食べにいかないかい!?」

なんて、声をかけて、

良い感じのカフェに一緒に行って、話して、帰って、、、

ここまで行けたら十分だろうな、

けどその前に、相手に彼氏いたらどうしよう…

とかも考えてしまう。

 

あー、モドカシイ。

 

こんな事に頭を使うくらいなら、溜まってる課題を終わらせた方が有意義かもしれない。

結局、私は一人になるのです。

 

いやぁ、課題やりたく無いなぁ。

 

ラジオの企画メモ

最近、自分の中でラジオの需要が高まりつつあります。

匿名ラジオのリスナー系大学生です。

 

まずは近況報告といいますか、、、匿名ラジオというYouTubeの動画にハマっておりまして。

顔を隠しているAlphaとダ・ヴィンチ・恐山という方が話しているだけなんですけども、すごく面白いんですよこれが。ぜひみてほしいですね〜…

 

じゃなかった。そういうラジオ系トーク動画って、最近凄くいいなって思うんですよ。「ながら作業」に向いている点、耳を澄ますと楽しめる、この2点が理由ですかね。

 

最近私もラジオをやってみたく思いまして、

けど、ラジオの計画ってどんな感じなんだろう?って感じでいつまで経ってもやらないと思うんで、今の深夜のノリでメモを残そうかと思います!

 

まずはトーク時間の目安…10分あれば上出来でしょうか。5分だと少ないし、20分だと長い…10分位を目安に計画すると聞きやすい気がする。

流れはこんな感じでしょうか

 

1.〇〇ラジオ(タイトルコール)

2.ラジオの紹介(ラジオのコンセプトやMCの自己紹介など)

(ここまでで1分)

3.今回のラジオの内容説明(こんな事について話していきます!だとか)

4.小休憩

5.タイトルコール

(ここまでで1分30秒くらいでしょうか)

6.企画開始

(このコーナーではこんな事を話していきたいと思うんですけど…)

7.企画終了

(5分経過)

8.小休憩

9.タイトルコール

10.企画開始ver2

11.企画終了

(9分経過)

12.小休憩

13.タイトルコール

14.ラジオ終了挨拶

(10分過ぎたかな)

 

よし、これで時間はOK!

誰かと話しながら進めたり、コメントとか読んだりしたら時間は引き延ばせる気がする!

そうでもしないと、一人で3分話し続けるのってムリがある!そんな気がする!

 

あとはターゲット。

動画のターゲットを誰にするか。

うーーーん。迷う。

知り合いに知られたくないし、顔も知らない奴に個人情報晒すわけにもいかないし。

身内ネタを存分に多用するけど、万人が理解できるラジオとかどうでしょうか?

絶対企画考えるのも、話す時もダルいんだろうけど…

 

あとは一緒に話してくれる人とコメントしてくれる人がいればOKだな!

 

…いないけど!

 

やるか!?ぼっちラジオ!!!

 

…冷静になってみるかー…

 

(頭冷やし中)

 

 

…さて、書き終えた今振り返ると、黒歴史を製造してしまった気がしないでもないです。

ま、いっか!楽しかったし!

何より、計画するだけならタダなので。

ラジオの動画作成まで進まない事を真摯に祈る事にします。

 

中身まで考えたら余計に黒歴史の密度が高くなる気がするのでやめておきます…

 

さて、この記事はそろそろ終わりを迎えるわけでありますけれども、最後に一つ、言い残したことがあります。

 

“深夜ラジオ”

って響き…良いよね!

芸術と設計

自分には芸術の才は無さそうだ。

 

将来、社会で飯を食べて暮らしていけるように、毎日のように設計を学ぶ。

 

そんな日々を送り、次の春が来たら卒業を迎えるわけだが、それまでに私は、自分を受け入れることができるだろうか。

 

…どうか、世迷言かのような独り言を呟かせてほしい。

 

私は一人で勉強をしていない。

友達以下の、学友と呼ばれる存在と一緒に日々を過ごしている。

少し前まで親友と呼べる存在はいたが、嫉妬や懐疑心から、今となってはそう呼ぶには少々口が重たい。

家で机に向かう時はいつだって一人だが、学ぶ時は、いつだって周りに誰かがいたのだ。

その誰かに該当する学友の皆はとても賢く、いつも助けられてばかりいる。ありがたい話だ。

だけど、助けられるたびに、周りとの「差」を感じてしまう。

…自分の情け無さを感じてしまう。

 

中学を卒業する頃まで、自分には問題を上手に解決する能力があるものだと錯覚していた。錯覚だった。

誰かに頼らないと、相談しないと生きていけないような自分だったことに気づいた。

 

僕の周りには凄い人だらけだ。

慎重深く、細かな事に気付く人がいた。

自分が知らない事を知っている人がいた。

家に帰って何時間も作業を進めれる人がいた。

自分にはできないことができる人がいた。

デッサン力が上手い人がいた。

パースが上手に描ける人がいた。

何も書かずに、口頭だけでよくわからない凄いことを言って、実行して解決している人がいた。

 

私には、「子ども」という言葉がお似合いかもしれない。

自分一人で解決できる問題の限界が、今年二十歳にも関わらず見えてしまった。

…おそらく、俺は芸術家になれない。

綺麗な絵を描けない。描き方を知らない。手は不器用だし、感性も豊かじゃ無い。

誰かの力を借りないと、作品一つ生み出すこともままならない事を知った。

そもそも、誰かの力を借りて生み出した作品は、私の芸術になるのだろうか…

そう、私に才能は無かった。

そんな私が、設計士の道を歩めるのだろうか。

過去を生きた建築家も、今を生きている建築家も、ほとんどが芸術に関心があった。

ライトは葛飾北斎の影響を、安藤忠雄は1960年代のアメリカの美術に影響を受けていた。影響を受けて、自分の建築に取り入れていったのだ。

 

…おや?と気づいたことがあった。

過去を生きた建築家も、今を生きている建築家も、誰も芸術の才能がなかったんじゃ無いのか!ってね。

レオナルドダヴィンチ?彼はまさしく天才だろう。例外という事にしておく。

 

だけど、建築家という生き物は、ほとんどが芸術家の影響を受けて、実際に現実化した人たちだ。そこに彼らの芸術は介入しているのだろうか。

 

答えはおそらく、当の本人らしか知らないのだろうが。

 

だけど、確かなことがある。

設計はアートではない。

 

細かく説明すると、100%のアートでできた設計は存在しないのだ。

 

なぜか。建築は工学だからだ。

構造設計は芸術だろうか?いや、現実を数値化したものだ。

設備設計は芸術だろうか?いや、建築物を利用できるようにするためだ。

意匠設計は芸術だろうか?そこに芸術が関与する余地はある。だが、芸術だけでは成り立たない。施工不可能なディテールを設計する事は許されないし、日本では建築基準法や景観条例に基づいた建築物にしないと、成り立つことすら許されない。

 

芸術は、一人で黙々と作業をしても成り立つが、それだけでは設計の足元にすら及ばないのだ。

 

芸術は、自分が作りたいモノを作って終わりだが、設計は、施主(お客さん)の為にモノを作らなければならない。

認められなくてはいけない。

気に入ってもらえないといけない。

すぐ捨てられないようにしないといけない。

 

設計が仕事として成立する理由でもあるだろう。

 

そして、ここまで来ると、設計は一人で成り立たせるのは困難だということもわかるだろう。

 

ゼネコンや、〇〇ハウス、〇〇設計事務所などがあるように、設計に携わる企業のほぼ全てが組織化されているのだ。

 

さて、話を少し戻そう。

絵を綺麗に描ける人は、

知識人は、

芸術の才能がある人は、

設計の才能があるのだろうか?

 

僕には芸術の才能は無いかもしれない。

けど、設計の才能は少なからずありそうだと、思えたのです。

 

過去何度、クラスメイトを、先輩を、凄い後輩を、教員を頼ってきたことやら、、、

過去何度、自分で考えたことがことごとく否定されてきたか…

 

けど、作り上げたモノは、どれもいいモノだった。そう思える。

 

だって、それは…

俺一人では到底為せないモノづくりだったから、という事にしておこう。

 

…それはそれとして、自分個人のスキルアップもしなくちゃいけないなー、っておもう私だったのです。だって、芸術の才能がないからね。

 

どうも、夜迷言のような独り言が大好き系男子でした〜