コンクリートみたいな私と自然な君
隈研吾という建築家が出した本に、自然な建築、という本がある。
この本を読むと、鉄筋コンクリートの本質に迫れた気がするのだ。
鉄筋コンクリートの本質、これ即ち、私のような現代人の本質に似通ったものがあると思うので書き留めようと思う。
鉄筋コンクリートは、表面を自由に取り繕う事ができる。
木材、石材、レンガ、珪藻土、、アプローチの手段は様々だ。
鉄筋コンクリートは、その中身を知ることはできない。
鉄筋の劣化は、壊れてやっと気づく事ができる。
鉄筋コンクリートは、造形の自由度が高い。
なぜなら、コンクリートそのものに形は無いからだ。型枠を用意すれば、どんな造形も可能にしてしまう。線を引き、中身に困れば、コンクリートを流すだけで整合性はとれる。
鉄筋コンクリートは、普遍的だ。
材料が単純であるので、型枠さえ用意できれば、どこでも作れてしまう。
それに対して、自然な材料がある。
代表的なものは木材、それ以外にも様々なモノがあるだろう。
それらは勝手が悪く、けれども鉄筋コンクリートには無いモノがたくさんある。
表面を自由に取り繕う事ができない。
材料の劣化は表面に露わになる。
造形の自由度は鉄筋コンクリートに比べて高くない。
普遍的ではない。砂漠地帯で木材を用意するのは難しい。木造が発展してきた日本は稀有な存在だと思う。
ここまで挙げて、私が日本に、とある地域で育ったことに誇りに思う。
具体的に言おうか
私の醜さを
周りには争いを起こさぬように、平和になるよう感情を押し殺して取り繕って、
ヤバくなったら欠点が露わになって、周りに迷惑かけた事が何度あった事だろうか。
生きる方針というものもないので、今までの行動を振り返ると矛盾を見つけるのは何も難しいことではなく、
きっと、このような自分のような人間はどこにもいるんだろうな、俺の代わりなんてどこにでもいるんだろうな、
そう、生きてきたのだ。
悔やんでも悔やみきれない。
最近、地元が好きになった。
人と触れ、自然に触れ、歴史に目を向け、文化に目を向けた。
重層的に積み重なってできた地元に誇りを持ち、形をしっかり持った自然な地元に憧れや敬いを抱き、一生をこの地で過ごすのも悪くないなと思いはしたものの、私は君に添い遂げる資格はあるのだろうか。不安になる。
それでも、この気持ちに嘘偽りなどないので、正直になって、この想いを告げようと思う。
自然な人間に、私はなりたい。
今を変えたい系男子の戯言