芸術と設計
自分には芸術の才は無さそうだ。
将来、社会で飯を食べて暮らしていけるように、毎日のように設計を学ぶ。
そんな日々を送り、次の春が来たら卒業を迎えるわけだが、それまでに私は、自分を受け入れることができるだろうか。
…どうか、世迷言かのような独り言を呟かせてほしい。
私は一人で勉強をしていない。
友達以下の、学友と呼ばれる存在と一緒に日々を過ごしている。
少し前まで親友と呼べる存在はいたが、嫉妬や懐疑心から、今となってはそう呼ぶには少々口が重たい。
家で机に向かう時はいつだって一人だが、学ぶ時は、いつだって周りに誰かがいたのだ。
その誰かに該当する学友の皆はとても賢く、いつも助けられてばかりいる。ありがたい話だ。
だけど、助けられるたびに、周りとの「差」を感じてしまう。
…自分の情け無さを感じてしまう。
中学を卒業する頃まで、自分には問題を上手に解決する能力があるものだと錯覚していた。錯覚だった。
誰かに頼らないと、相談しないと生きていけないような自分だったことに気づいた。
僕の周りには凄い人だらけだ。
慎重深く、細かな事に気付く人がいた。
自分が知らない事を知っている人がいた。
家に帰って何時間も作業を進めれる人がいた。
自分にはできないことができる人がいた。
デッサン力が上手い人がいた。
パースが上手に描ける人がいた。
何も書かずに、口頭だけでよくわからない凄いことを言って、実行して解決している人がいた。
私には、「子ども」という言葉がお似合いかもしれない。
自分一人で解決できる問題の限界が、今年二十歳にも関わらず見えてしまった。
…おそらく、俺は芸術家になれない。
綺麗な絵を描けない。描き方を知らない。手は不器用だし、感性も豊かじゃ無い。
誰かの力を借りないと、作品一つ生み出すこともままならない事を知った。
そもそも、誰かの力を借りて生み出した作品は、私の芸術になるのだろうか…
そう、私に才能は無かった。
そんな私が、設計士の道を歩めるのだろうか。
過去を生きた建築家も、今を生きている建築家も、ほとんどが芸術に関心があった。
ライトは葛飾北斎の影響を、安藤忠雄は1960年代のアメリカの美術に影響を受けていた。影響を受けて、自分の建築に取り入れていったのだ。
…おや?と気づいたことがあった。
過去を生きた建築家も、今を生きている建築家も、誰も芸術の才能がなかったんじゃ無いのか!ってね。
レオナルドダヴィンチ?彼はまさしく天才だろう。例外という事にしておく。
だけど、建築家という生き物は、ほとんどが芸術家の影響を受けて、実際に現実化した人たちだ。そこに彼らの芸術は介入しているのだろうか。
答えはおそらく、当の本人らしか知らないのだろうが。
だけど、確かなことがある。
設計はアートではない。
細かく説明すると、100%のアートでできた設計は存在しないのだ。
なぜか。建築は工学だからだ。
構造設計は芸術だろうか?いや、現実を数値化したものだ。
設備設計は芸術だろうか?いや、建築物を利用できるようにするためだ。
意匠設計は芸術だろうか?そこに芸術が関与する余地はある。だが、芸術だけでは成り立たない。施工不可能なディテールを設計する事は許されないし、日本では建築基準法や景観条例に基づいた建築物にしないと、成り立つことすら許されない。
芸術は、一人で黙々と作業をしても成り立つが、それだけでは設計の足元にすら及ばないのだ。
芸術は、自分が作りたいモノを作って終わりだが、設計は、施主(お客さん)の為にモノを作らなければならない。
認められなくてはいけない。
気に入ってもらえないといけない。
すぐ捨てられないようにしないといけない。
設計が仕事として成立する理由でもあるだろう。
そして、ここまで来ると、設計は一人で成り立たせるのは困難だということもわかるだろう。
ゼネコンや、〇〇ハウス、〇〇設計事務所などがあるように、設計に携わる企業のほぼ全てが組織化されているのだ。
さて、話を少し戻そう。
絵を綺麗に描ける人は、
知識人は、
芸術の才能がある人は、
設計の才能があるのだろうか?
僕には芸術の才能は無いかもしれない。
けど、設計の才能は少なからずありそうだと、思えたのです。
過去何度、クラスメイトを、先輩を、凄い後輩を、教員を頼ってきたことやら、、、
過去何度、自分で考えたことがことごとく否定されてきたか…
けど、作り上げたモノは、どれもいいモノだった。そう思える。
だって、それは…
俺一人では到底為せないモノづくりだったから、という事にしておこう。
…それはそれとして、自分個人のスキルアップもしなくちゃいけないなー、っておもう私だったのです。だって、芸術の才能がないからね。
どうも、夜迷言のような独り言が大好き系男子でした〜